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 このアニメーション映画は、平成5年度に戦争を知らない子ども達に、戦争の本当の姿を知っていただくために、埼玉ピースミュージアムが企画制作したものです。
 1945年8月14日夜、第二次世界大戦最後の空襲(くうしゅう)を終戦前夜に受けた熊谷市の惨劇を、当時の記録、体験者の話や手記を忠実に参照して描いた短編アニメーションです。

           最後の空襲くまがや           

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【あらすじ】

先の東京大空襲で孤児になってしまった主人公、幸子(さちこ/7才)は、熊谷の叔父に引き取られることになり、8月13日、一人、熊谷駅に降り立ちました。しかし、従兄弟の良雄や正雄と楽しいひとときをすごしたのも束の間、その翌晩、再び空襲に巻き込まれてしまいます。

熊谷市では数時間の内に多くの市民が犠牲になりました。生き残った人々も、無残な焼け跡の中で玉音放送を聞かねばならなかったのでした。そして、幼い幸子の命も奪われてしまいました。

さらに、空襲では助かった良雄も、河原で見つけた不発弾によって不慮の死をとげてしまったのでした。

     講演会 「熊谷空襲の体験」五十嵐秀雄氏     

 熊谷空襲時、私は12歳でした。その日は、いつもより早く布団の中に入りました。父親は憲兵隊に勤めており、その日は夜、出勤していきました。布団へ入ると、ラジオは鳴っていましたが、ほとんど聴取不能でした。寝入った頃に警戒警報、続いて空襲警報となりました。
 普段から寝る時には、ズボンとシャツぐらいは枕もとに置きました。その時は確か半ズボンをはいて、その上に浴衣を寝巻きがわりに着ていました。飛行機や戦車といった戦争物の柄の浴衣を着ておった記憶があります。空襲時には半ズボンとランニングの上に浴衣を着た非常に奇妙な姿で逃げ出しました。
 当時、家族3人、私たち家族の隣には朝鮮人の方が住んでいました。朝鮮名は知りませんでしたが、秋田一郎と日本名を名乗っていました。その方が作った防空壕は良くできていましたので、そこへ私たち家族3人も入れてもらいました。
 防空壕には、秋田さんの家族3人と合計6人が空襲と同時に入つたわけです。間もなく、私たちの防空壕にも焼夷弾が落ちてきました。防空壕にはブリキのふたがしてありましたが、それがなかったら、私たちはむし焼きになっていたかもしれません。

 

焼夷弾の衝撃が激しかったために、防空壕から飛び出しました。周囲は焼夷弾がいっぱいで、紅蓮の炎が立ち昇っていました。私の家も火に包まれていました。
 避難しようとすると、隣のおばさんが逃げてはだめだと言って、着ていた浴衣をつかまれました。あなたの家が燃えているのだから、消しなさいと言われて、5年生の私に水が入ったバケツが渡されたのです。そばに落ちた焼夷弾に水をかけたら、火を噴いてこつちへ向かってきました。焼夷弾の炎が浴衣に燃えつき、慌ててバケツをほうり出して逃げました。
 話が少し前後しますが、防空壕から出た時、あたりは非常に明るく感じました。それは照明弾が投下されていたのです。照明弾にはコウモリみたいな黒い笠がつけられ、それがあたり一面投下され、ふわふわ浮かぶように落ちてきました。このせいで夜中なのに地上が明るいのです。桑畑から家の方を見た時、焼夷弾に混じって照明弾がいくつも見えました。
 その後平和の時代になりまして、子供に花火を買い与えた時、照明弾に似た中国花火がありました。花火はきれいですが、空襲時は町全体が炎に包まれ、その上、我が家からも火が上がっているので悲しく辛い思いをしました。
 空襲警報が解除された後、火傷がひりひりと痛み出しました。その時、雨が降り始めました。雨が心地よく左腕の傷を冷やして、気持ち良かったことが思い出されます。あの時、どうして雨が降ったのかわかりません。間もなく周囲もだんだん明るくなった頃には、火災もおさまりつつありました。

 

その頃になると、空襲を避けて避難した人々も、自分の家へ、また自分の家があったとおぼしきところへ帰りました。家族の中では私が一番早く戻り、家を探しましたが、家の跡形もありませんでした。焼け残っていたのは、仏壇に上げたお盆様の炭化したカボチャと、お勝手とおぼしさ所にころがっていた焦げたお米のついたアルミ製の釜、それに私が消火できずに投げ捨てたバケツの三点だけで、あとは全て燃え尽きて何も残りませんでした。
 どこへどうやって逃げたのか自分でも全然わかりません。とにかく人について転がり込むように逃げ、気がついてみると桑畑でした。そこは石原町で、水戸屋と高崎線の線路の間の桑畑でした。周囲の建物にはみんな火がついて、まさに地獄絵でした。

 

(この講演会の内容は、「資料館だより」1996.3月号から転載しました。)